十月六日、十七時四十五分、MH1154便にてペナン着。今回のマレー半島植物探査の最終目的地である。目的地といっても、毎回この旅行の最後には風呂とシャワーの完備したホテルに泊り、ヒゲをそり、旅のアカを落とし、緊張した心身をリラックスして帰国する目的なのである。人によってはまる一週間、ヒゲは伸び放題、靴は泥だらけで、まるで山賊のようになっている者もいる。ペナン島はマレー半島の西側のマラッカ海峡にある、南北約25kmの亀の形をした島である。最近長さ約3kmの橋ができ、半島との交通の便が楽になった。ペナンはマレー語でビンロウの意味で、かつてビンロウジの積出し港としても栄えた島である。1786年、英国が東インド会社の基地として植民地化し、その支配は第二次世界大戦まで続いた。ペナンから北東約100kmはタイ領で、半島の反対側の南シナ海に面したパタニやソンクラは、十七世紀には日本人町があった場所である。この頃は朱印船貿易が盛んで現地から日本向けに生糸、鹿皮、鮫皮、香木、胡椒などを出し、日本からは米、麦、銅鉄器、武具、日用品(酒、醤油、鰹節、足袋など)を入れ、販売は和服で両刀を帯び、チョンマゲを結った武士(日本で食いつめた浪人)が行なったが、組織だった武力に優れ、評価されてシャムの国政にまで関与するにいたった。中でもアユタヤの日本人町頭領の山田長政は有名で六昆王(リゴール)に封ぜられるまでになった。国王の女を妻としたが、王の没後毒殺された(1633年)。この頃は東南アジアで活躍した日本人は多く、モルッカ諸島はアンボイナでのオランダ・イギリス抗争の傭兵となったり、肥後加藤家の家臣森本右近太夫はアンコールワットにまで詣でている。また角屋七郎兵衛やジャガタラお春など多彩である。寛永十年から十三年に幕府より発せられた第四次にわたる鎖国令により、新たな移住者がとだえたため、これらの人々は元禄時代にはほとんど死に、二世は現地に同化していったのである。
宿泊のホテル、ゴールデン・サンズに着いたのは八時半過ぎであった。タマンネゲラからは丸半日かけて船、バス、飛行機を乗り継いだわけで、いささか強行軍であった。とりあえずインド洋に沈む夕日を背景に遅めの夕食をとる。魚介類、野菜の寄せ鍋で一杯の後、明日のスケジュールもそこそこに各自室に引きとってもらった。
○サラソウジュの本物は?
十月七日、九時のバスにて、ジョージタウンに向かう。寝釈迦仏寺、植物園の見学コースである。寝釈迦仏は正式には涅槃仏といい、釈迦が沙羅双樹の下で入滅(二月十五日)する姿を表現している。
日本ではサラソウジュというと、ナツツバキ(Stewartia pseudocamellia)を別名シャラノキと呼び、これがサラソウジュと思われているのが一般的な見識であるが、これは間違いで、元祖本物はラワン材としても使われるフタバガキ科のShorea robustaである。これが和名サラソウジュである。サラソウジュは熱帯の樹木でインドからアッサム、ベンガル地方に分布する高木で、仏入滅の際、一根より二幹を生じたこの樹が四方に四株あったことより双樹の名がつけられたのである。本州以西に自生する日本のシャラノキは名が似ているということで代用されているので、本物とは全く縁もゆかりもないのである。また同様にボダイジュも本物はインドボダイジュ(Ficus religiosa)でクワ科であるが、葉が似ているというだけでシナノキ科の植物がボダイジュと呼ばれ、代用されているのが現状である。これには原因はいろいろ考えられるが、元祖は熱帯性のもので日本での越冬は無理で、そこで代用品で我慢したことだと思われる。平家物語の冒頭は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色……」。沙羅双樹は解説したが、問題は祇園で、これも一般の人々は京都の舞妓さんのいる置屋だと思っている人が多い。大変な間違いで祇園精舎の正式名称は祇樹給孤独園といい、祇樹はインドの波斯匿王の太子祇陀の林樹(林園)で、後に釈迦に献ぜられ、釈迦はここを拠点として二十五年間布教活動をしたのである。精舎は弟子や行者のいる僧房のことである。日本では祇園小唄「祇園恋しやだらりの帯よ」などにも歌われ、色遊びの場所として使われているが誠に不謹慎の極みである。
話をペナンの涅槃寺にもどして、ここの仏は全長32.5mあり、世界で三番目といわれている。寺院内での写真撮影は禁止になっている。広場には庭らしいものはなく、シナ鉢に植えられたクロトンの葉が同系の原色極彩色の建物とよくマッチしている。塀際にたった一本、マメ科のクロヨナ(Pongamia pinnata)があった。花は帯紫色で総状花序は長さ15-20cmある。これが一斉に咲くとかなり目立つ存在だが、熱帯では年中ポツポツ咲いているようであまり目立たない。日本では奄美以南の琉球列島に自生しており、秋には葉も見えないほどに咲く。クロヨナは旧熱帯に分布し、材は比重0.9で農器具、車輪などに、耐久性・抗虫性があるところから利用され、種子は30%の油を含み、民間薬として樹皮からタンニン、繊維をとり、また飼料植物としても使われている。ジョージタウンの中心部より、北西8kmに植物園がある。総面積28万km2の中央には滝があるので、Water fall Garden、あるいはサルが多いことよりMonkey Gardenとも呼ばれている。熱帯ジャングルもそのまま残されている部分もあり、入園は無料で、休日には市民の憩いの場所となっている。ペナンヒル(810m)までの8kmのハイキングコースも含まれている。遊歩道はアスファルトで舗装され歩きやすい。入口付近でまず目に留まったのは、サガリバナ科のホウガンボク(Couroupita guianensis)で、樹によって花盛りのもの果実を沢山成らせているものなどがあり、結果過程を知る上で参考となった。ホウガンボクは種名のとおり、南米のギアナ地方が原生地であるが、大きな果実の付き方が面白く、世界の熱帯の庭園樹として急速に広まった樹木である。園内中央部には百数十本の株立ちをしたニボシヤシ(Oncosperma tigillarium)が20m以上の高さで茂っている。このヤシは前で述べたタマンネゲラのバテック族の吹き矢に刺が利用されているもので、黒い刺は鋭く、長さ5cmほどになる。材は耐水、耐久性があり、建築用材に、繊維はロープに、花は芳香があるので飯の臭い消しに、果実は糖を含み生食に、生長点は野菜として利用される。林床には三弁(見かけは四弁)の小さなピンクの花を咲かせているショウガ科のケンフェリア(Kaempferia pulchra)があった。高さ約10cmでおそらくショウガ科の仲間では最小の植物かもしれない。滝の傍にフィクスの大木があり、その根方にこれまで見たことのない蔓性の植物があった。葉は対生で中肋および側脈にシルバーメタリックの斑があり、長さ約8cm、広被針形である。蔓は長いもので3-4mになり、大木を登はんしているが、着生根はない。一つ失敬するかと根を掘ると小指大の芋がでてきた。どうも、ガガイモ科のハートカズラの仲間(Ceropegia)の一種ではないかと思われた。セロペギア属は旧熱帯に約160種あり、園芸的には南アフリカ原生のハートカズラがラブ・チェーンなどの園芸名で日本でも使われている。トウジュロとワシントニアを交配したら、さもこの様子になるかなと思われるような掌状葉の詰まった単幹ヤシ、オウギヤシ(Borassus flabellifer)があった。マレー諸島やミャンマーでは、古来よりココヤシに次ぐ重要なヤシで、核内の汁液は飲用、胚乳は食用、花弁を切り出てくる乳汁は発酵させて酒に、あるいは煮つめて砂糖に、葉は屋根材、紙の代用、繊維はロープ、ブラシ、材は硬く塩水に強くヵヌー、ステッキ、定規、傘の柄など、苗は野菜としても利用され、まったく捨てる所のないヤシである。葉はかつてエジプトのパピルスと並び、紙の代用品として仏典、教典などに利用され、現在でも法隆寺にはこの葉に書かれたインドからの教典、貝葉経が保存されている。
○ホテルの周りの植栽
昼食後はホテルに戻り、自由行動となる。出発の集合時間まで五時間ほどある。ホテルの庭園を散策することになった。西側には同系列のラササヤン・ホテル、パームビーチ・ホテルが隣接している。先ずはお世話になっているゴールデン・サンズ・ホテルのプライベート・ビーチを含んだ主庭園だが、プールを中心として四阿があり、ココヤシ、プルメリア、ショウジョウヤシ、ホウオウボクなどが整然と植栽されているが、熱帯植物の国籍を無視したごちゃ混ぜ植栽で何の特徴もなく、一般的リゾートホテルの典型的な植栽で面白くもなんともない。プールサイドや木陰をうろうろしても仕方ないし、厨房に抜ける裏手に行ってみると、でかい木があった。高さ25m、マメ科のタマリンド(Tamarindus indica)である。ベトナムのホーチミン市の並木によく使われていたが、アフリカの原生種である。若い豆果は野菜として売られており、長さ8-20cm、中に粉末状の果肉があり、調味料、清涼飲料、酒などが作られる。この果肉は乾燥アンズに似た酸味が少しあり、そのまま子供たちの間食として生食される。数年前ジャワのボゴール植物園前の露店で店主が食べてみろと二、三個くれたので試してみたところ、まあまあの味であった。がその後がいけない。数人の仲間に配ったものだからお金を頂戴で一悶着。ガイドが試食のための提供ではお金は払わないと言って決着がついた。払っても十円もしないが、物事道理が大切である。タマリンドの果実は中国では暑気払い、産婦の嘔吐、食欲不振に効果があるとされ、インドネシアではアサムと呼んで、調味料、薬用に用いる。この木は単型属で一属一種である。ホテルの勝手口には紫檀(Dalbergia cochinchinensis)があった。紫檀が分類されるマメ科のツルサイカチ属は、熱帯を中心に150から200種があり、大半は蔓性であるが、木本の二、三十種は銘木として利用されている。古くから黒壇(カキノキ科)、鉄刀木(マメ科)とともに唐木の代表として、装飾用材、楽器、彫刻材などに使われてきた。紫檀は英名がローズウッドで、心材にほのかなバラの香りがするためである。比重は1を超え、重硬で加工後の狂いはない。本種は紫檀として取り扱われているミャンマーからインドにある数種の中でも代表種といわれ、他に南米にも、楽器フルートの材として使われているものがある。マレーシアは首都クアラ・ルムプールを始め、地方都市にも並木としてよく使われ、緑陰樹としての用途も高い。わが国に約千二百年前に伝えられた、正倉院御物として名高い縲鈿紫檀五弦琵琶は紫檀でできており、世界最古で一点しかない琵琶である。また光明皇后が東大寺に寄進したと伝えられる木画紫檀茶局(碁盤)は聖武天皇遺愛の品で、この碁盤はトゥルファンのアスターナで出土したものと同系のものといわれている。いつれにしてもシルクロードを通じ、日本に渡って来たものであろうが、千年以上経た現在でも寸分の狂いなく、その用途に耐えるという。
隣にあるのはラササヤン・ホテルである。ここはペナンで高級ホテルとしての格式も高く、ホテル正面玄関はココヤシを中心として、サンタンカ、ブーゲンビレア、矮性のフイリタコノキ、ヒメショウジョウヤシが植栽され、芝生の部分も広くとり、車寄せは道路から100mの半円形の私道が敷かれ、普通車が三台並んで走る幅がある。当ホテルの宿泊客をよそおって、正面入口からドアボーイの深々頭を下げた挨拶に大様に応え、ロビーホールを抜け、中庭に入り込んだ。一見和風庭園かと思われるほどであった。砂利や庭石を使い刈り込まれたドゥランタやクフェア、どこから持って来たか、リュウノヒゲ、ノシランなども植えられている。
植栽を仕切る土留石には、伊勢ゴロ石や木曽石によく似た物、敷き砂利は大磯や那智黒を思わせるものが使用されている。庭石は海岸に転がっている磯石を運び込んだと思われ花山岡岩のようであった。ペナンは現在マレー半島とともに火山活動や地殻の変動はなく、安定した地塊地域となっているが、かつてインドプレートがユーラシアプレートにぶつかって潜り込んだ地域で、火山活動も盛んな時期があったと想像される。現在ではその潜り込みが約300kmずれて、スマトラ、ジャワ、ロンボクなどのスンダ列島をこしらえ、活発な火山運動をしているのである。最近日本では庭園用石材や墓石が不足して(海外の輸入が安い)、那智石がフィリピン、灯篭などが朝鮮、墓石が遠くノルウェー、スウェーデン、インドから輸入されている。主食の米、エビ、マグロ、木材、雑貨など、ことごとく海外に求め死してスウェーデンの墓石に納まるなど日本人は、正にインターナショナルになったものである。米なんぞは昨年(1992年)の不作で緊急輸入は200万t!日本の商社が札束で顔をひっぱたいて買い付ける結果、米の国際価格が高騰し、最貧国では食糧不足で200万人以上の餓死者が出ることを予想するのは、筆者の取り越し苦労的考えであろうか(日本人の一人当たりの年間消費量は70kg弱、200万tは2857万1428人分ということにもなる)?日本の飽食文化に育まれた世代の若い父母、その子供達によって、日本の消費する食糧の十分の二は残飯として捨てられている。
ビーチに面した主庭からプールサイドに目をやると、マメ科のアメリカネム(Samanea saman)があり、その根方に巨大なシマオオタニワタリ(Asplenium nidus)があった。通常この種は葉長が1m程度であるが、ここのは異常成長したのか2m以上もある。ここまで大きくなるのは稀である。日本にはオオタニワタリ(A. antiquum)があり、沖縄の石垣島では新芽が野菜として売られ、茹でてオヒタシにしたりマヨネーズを付けて食しても美味い。園芸種のアビスはシマオオタニワタリの変りものでコンパクトである。これは葉幅の広いのが特徴で、鉢物として人気がある。ただ単にタニワタリノキ(Adina pilulifera)というのがある。アカネ科の本種は九州の南部から東南アジアに分布しており、日当たりのよい谷や川岸に生えるので、この名がある。八月頃に葉の間から長い花柄を出し、径12mmほどのボンボン状の白い花をつけるもので、たまに鉢物としても出荷される。九州地方では造園材料にもされるため混同されやすいので、注意が必要である。この日はマレーシアでの最終日である。ホテルは七時に出るが、その前に早めの夕食をとることとした。ホテル前には華僑の中華レストランが三軒あり、日本円で支払いの効く一店に入る。先ずは冷えたビール、紹興酒、ヤキソバ、タンメンをつまみに、旅の話に花が咲く。ヒゲを落とし、衣服を整えた姿は、もう密林をズタ袋をひきずった山男の姿はない。MH1173便でクアラ・ルムプール着二十二時十五分、クアラ・ルムプール発二十三時三十分のMH088便で帰途についた。日々是好日の旅であった。
- 初出掲載紙:(社)日本インドア・グリーン協会発行『グリーン・ニュース』
- マレーシア・ペナン島植生誌(グリーン・ニュース、一九九四年三月号)
完売
[2000/03/25]田中耕次 著 / アボック社 / 2000年 / B6判 286頁
定価1,650円(本体1,500+税)/ ISBN4-900358-51-7
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